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 19世紀後半、バスク地方はイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長を遂げました。それ に伴い、カスティージャ・アンダルシア・ガリシアからの労働移民が急増します。労働移民 の増加により、貧しい日雇い労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート (労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになりました。彼らはのち にビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に社会主義運動を展開するようになります。 以上のような社会変動が、バスク人に「バスクの言語や文化の消滅」という危機感を与 え、バスク人にナショナリズム運動を促すことになるのです。そしてこの運動が「バスク民 族主義党(PNV)」の運動につながります。 しかし、1923年以降、およそ10年間はプリモ・デ・リベラの軍事独裁政権により、バ スクナショナリズム運動は弾圧され停止させられます。 しかし、ビルバオの「バスク青年団」はプリモ・デ・リベラ政権による弾圧に屈することな く運動を継続したのです。

 [バスク青年団]とは: ⇒1904年1月10日、約400人のバスク人青年が集まり結成される。 ⇒バスクナショナリズム運動の中核ともいえる組織。 ⇒主な指導者:エリアス・ガジェステギ、ホセ・アントニオ・デ・アギレ (バスク人初代大統領) 。彼らは、運動が弾圧され禁止されたのちも、カトリック教会の任意団体と偽り密かに運動を 続けていました。しかし、彼らの秘密会合が警察当局にばれると、多くの指導者が逮捕され 厳しい弾圧を受けました。

 1931年4月、統一地方選挙が行われました。その結果、王政が廃止されスペイン第二共 和国政府が誕生、これとともにバスク・ナショナリズム運動が一気に再開しました。そし て、バスク民族主義党(PNV)のうち、バスク独立を求める左派勢力が保守派の打破を目 指して分派し、バスク・ナショナリスタ行動党(ANV)を創設しました。 同じ年、第二共和国政府はバスク地方に自治憲章の作成を指令します。1933年11月、 その自治憲章案はナバラを除くアラバ・ギプスコア・ビスカヤの住民投票の結 果95.89%の賛成を得て認められました。これにより、アラバ・ギプスコア・ビスカヤ の3県がバスク史上初めて法的に自治州として認められたのです。一方、バスク3県へのナ バラ併合問題は、ナバラで行われた住民投票の結果、全体の53%の反対により実現しませ んでした。 1936年7月18日、スペイン各地で軍のクーデターが勃発、フランコ将軍がクーデター 宣言を行い、2年8ヶ月に及ぶスペイン内戦に突入します。スペイン本土は共和国政府地 域と反乱軍地域に分割され、バスク民族主義党(PNV)は共和国政府に忠誠を誓いまし た。スペイン内戦勃発からおよそ3ヵ月後の1936年10月1日、バレンシアに移転した 共和国政府議会でバスク自治憲章の公布がようやく公布されました。 そして、ゲルニカで行われたバスク人民代表会議で、バスク自治政府の初代大統領にホセ・ アントニオ・デ・アギレ・イ・レクベが選ばれました。彼はゲルニカにある聖なるオーク木 の下で次のような宣誓を行い、バスク自治政府が誕生したのです。

 Jaungoiluaren aurrean apalik, (神の御前に、敬虔に)

 Euzkolur ganian Zutunik, (バスクの大地に立ち)

 Asabearen gomutaz (祖先の思い出とともに)

 Gernika'ko Zuaizpian (ゲルニカの木の下で誓います)

 Nere aginduba Ondo betetzia Zin dagit. (私の任務を忠実に果たすことを)

 ゲルニカはスペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツのコンドル飛行部隊によって爆 撃された、バスクの文化的伝統の中心地です。前回書いたように、アギレが大統領の宣誓を 行った場所であり、バスク自治の象徴である聖なる「オークの木」があるところです。 この爆撃でゲルニカは町の71%を焼失し、人口7000人のうち約2000 人(28.6%)が犠牲になりました。このゲルニカ爆撃の知らせがフランコに伝わると、 彼はその責任を否定し、バスク軍が自らガソリンを撒いて破壊したのだ、という声明を発表 しました。その後、パリにいたピカソがこの事件を聞き、爆撃で亡くなった人間や動物をモ チーフに、パリ万国博のスペイン館の壁画にこの作品『ゲルニカ』を制作し、世界中に戦争 の悲劇と恐怖を伝えることになったのです。 ゲルニカ陥落後、バスク軍の最後の拠点ビルバオもドイツのコンドル飛行部隊による空襲を受け、6月19日に陥落します。そして6月27日にはフランコ国民戦線軍(反乱軍)はビ スカヤとギプスコアの地方自治特権を廃止し、バスク自治政府は亡命政府となってしまいま す。その後、亡命政府はバルセロナ・フランス・ニューヨークと活動拠点を移動しますが、 もはや政治的な力は持っていませんでした。 フランコにより自治権を廃止されたバスクでは、バスク語は禁止され、そればかりかバスク 的なもの全てが禁止されました。また、バスク人民戦線側を支持したカトリック教の神父た ちの中には死刑に処せられる者もいて、このバスクに対する弾圧は海外のカトリック教徒に も衝撃を与え、フランコ政権に対する抗議が集中しました。
  第二次世界大戦が終わった1945年、バスク亡命政府は国連やユネスコにフランコ政権に よる弾圧を訴えましたが、それが受け入れられることはありませんでした。 国連などに受け入れられないことが分かると、バスク民族主義党青年部の中からこの状態を 自分たちでどうにかしよう!と立ち上がる者が出てきて、彼らによって1959年に「バス ク祖国と自由(ETA=Euskadi Ta Askatasuna)」が結成されることになったのです。 一方、アギレは翌年の3月22日に亡命先のフランスで亡くなってしまいました。

★ここまでの項はblog「Zazpiak Bat...4+3=1?」の筆者、remona121さんの記事を許可を得て掲載しました。

 

 その後1975年、フランコ将軍の死まで抑圧された時代が続きます。その間、ETAの中央政府に対するテロとETA狩りという凄惨な事が繰り返されます。フランコ将軍死後、既に1975年(フランコ将軍生前)に即位していたカルロス1世下で国政は民主化に向かい、自治権も回復し現在に至っている。また、ETAも2006年3月声明を出し、武装放棄を前提に政府と交渉を始めている。戻る バスクのメインに戻る